ポントワースの駅を降りると太陽が容赦なく肌を照りつけた。 オーヴェルへ行くには、ここから更にオワース川に沿って伸びている支線へ乗り換えなければならない。
昨日まで上着なしでは散策にも出れない日が続いていたのに、今日はもう真夏のようだ。
それは、もう明日の朝には日本へ帰らねばならないというお昼過ぎのことだった。
特に目的もなくブラブラ遊んでいるうちに滞在予定の一週間があっという間に過ぎ、せっかく芸術の都に来たのだからと付け刃的に訪れたオルセー美術館で、世界中から群れをなして押し寄せてくる観光客たちと同じく、まるで土産話を作るのが目的であるかのようにのんびりと印象派の傑作を見回るあたしを一枚の絵画が呼び止めた。
それは見事なまでに光を描くことによって表現された日本庭園ではなく、今まさに動き出しそうな躍動感で描かれた踊り子でもなく、油絵の具をチューブからそのまんま絞り出したのではないかと思えるほど荒々しく感情を剥き出しに描かれた田舎の教会のものだった。
描かれているのは確かに教会なのだが一目見てただの教会とは思えない不思議なエネルギーを発しているのだ。
もともと美術に深い関心があるわけでもなく、がんばって美術館に入ってもいいところ一時間で脳内の機能が全て停止するのが常だったあたしにとって、これは驚くべき事態だった。
うねるような深く青い空の下に灰色で描かれた教会・・・それは強い生命力に溢れ、同時に深い絶望感を湛えているように見えた。
いったい、これはどうしたことか?
なぜ、一枚の教会の絵にこれほどの感情が込められているのか?
あたしは実際の教会が自分の目にはどのように映るのか確かめたくなってきた。
フィンセント・ファン・ゴッホ終焉の地・オーヴェル=シュル=オワースまでは電車で1時間もあれば行ける筈だ。
いますぐに出れば、ゆっくり見ても夜までには余裕でパリへ帰って来れるだろう。 頭で考えるより先に、既に足はもう勝手にサン=ラザール駅の方に向いていた。
既に日が西に落ち始めて逆光になっていたせいもあってか、教会は思っていたよりもずっと暗い色に見えた。
辺りは静寂につつまれていて、あたしには絵で見たような「強さ」や「うねり」に繋がる要素は微塵も感じられない。
やはりこの絵は、描き手の視覚を通して脳に情報が送られる際に、心のフィルターによって色彩が増幅されてキャンバスに投影されたものらしい。 では、いったい作者の心の内には何が起こっていたのであろうか?
素直にオーヴェルで降りれば良いものを、きっと絵に通じる風景を堪能できるに違いないと、いつもの気まぐれで一つ手前のシャポンヴァル駅で降りたまでは良かったが、作品と特に深いゆかりも無い田舎駅に標識やモニュメントのようなものがあるわけでもなく、ただ何の変哲も無い住宅街をひたすら30分以上歩き続けて辟易とした頃、あたしはやっと発見した一件の安酒場に涼を求めて入った。
店の中は昼間から酒を煽っている地元の男衆で賑やかだった。
とりあえず喉の渇きを癒すためにあたしが注文した「ハイネケン」は、店主によってこの国では既に仮死状態にある”h”を省かれ「アイネケン」となって差し出された。
「すみません、オーヴェルの駅まではどのくらいですか?」
「すぐそこだよ」
店主はあたしが歩いて来た方角と反対を指差した。
やれやれ、方角は間違っていなかったらしい。
この国では珍しくもない、生ぬるいビールを一気に飲み干すとあたしは通りに出て、また歩き始めた。
店主が言った通り、間もなくオーヴェルの駅前に建つ「ラヴー亭」が見えてきた。
フィンセントはこの二階で最後の数週間を過ごしたのだ。
季節が春だったせいか、風は爽やかで「カラスの群れ飛ぶ麦畑」に見られるような深く、うねるような色彩はどこにも見出せない。
もっとも、畑が金色に輝く季節ではないし、カラスも飛んでいなかったのだから当たり前なのかもしれない。
しかし、彼はこの畑の中で自らの胸を銃で打ち抜きラヴー亭まで歩いて帰ったというのだ。
急所を外れた弾丸は、フィンセントに弟テオと最後の会話を交わすわずかな時間を与えた。
果たして、彼にこの色彩を描かせた心のフィルターとは何なのか? そしてフィンセントにとっての絵画とは一体何だったのか?
この問いに答えるヒントは、駅前で手にした案内図の中にあった。 あたしは、ゴッホが描いた絵画の製作場所が記されているガイドの中に「墓」の文字を見つけた。
あたしの田舎にある、あたしが知っている「お墓」とは、ほんの1メートル四方ほどの敷地に先祖代々の家族全員が仲良く納められた縦長の石碑が立ち並んでいて、しゃがんで手を合わせようものなら後ろ隣の石碑にお尻が当たって「失礼します」といちいち詫びなければならないようなものだ。
家族の絆の深さという点においては、洋の東西で何ら違いのないものだと思うが、家族を一つの集団と見なし地域のコミュニティの中での輪を重んじる日本に比べると、あたしがかぶれているこの国では、愛情とはもっと直線的な個々の深い絆が根底に流れているように感じる。
たとえば兄弟愛というものは家族の輪の中で均等に分かち合う類のものであるとは限らず、互いの存在そのものが自分自身であるが如く深く愛し合う兄弟も存在する、という点において少々の驚きをもって受け入れるべき事態であることは、仲良く並んで眠る二つの石碑を目にした時にはっきりと認識させられたのだった。
その年の冬、あたしはモンマルトルを訪ねた。 画家を志したフィンセントは画商を営む弟のテオドールを頼ってここへやって来た。
「今世紀のもっとも偉大であり、もっとも活動的な人々は、常に主流に反して仕事をしてきたのであり、いつでも自らの意思で仕事をしてきたことがわかるだろう」
これはパリに赴く前にゴッホが弟に出した手紙の一節である。 つまり彼、フィンセントは既に自分が革新的な色使いの持ち主であることを自覚していたのだ。 そして、弟もまた兄の才能をじゅうぶんに理解していた。
生きている間にたった一枚の絵しか売れなかったと言われる画家は、統合失調症であるがゆえに奇抜な色彩を放ったわけではない。
彼は生きているものを生きているように、光るものを光るように描くことと自分の命を引き換えにしたのだ。
更なる光を求めてゴッホがたどり着いたのは南仏のアルルだった。
あたしには「日本の明るさ」と言ったゴッホの感覚がわからなかった。
この国はそんなに明るい、南の楽園ではない。 きっと彼は見もしない異国の地を勘違いしていたに違いない・・・
モンマルトルから帰った翌年、そんなことをぼんやり考えながら過ごしていたある日のこと、突如テレビからゴッホのひまわりの映像と共に美しい音楽が流れてきた。
それはフィンセントの活動を追った特別番組で、曲はアキラさんが作曲した「風のオリヴァストロ」だった。
その翌月、あたしは南仏に向かう飛行機の中にいた。
ゴッホの黄色をこの目で確かめるために・・・
マルセイユ空港に降りてゴツゴツと岩肌が剥き出しの山々が連なる景色を目の前にするまで、セザンヌが描く風景画は幻想的に見えるよう何らかのデフォルメが施されているのではないかと疑っていたけど、モネやルノワールと同世代であるにもかかわらずゴッホと並びポスト印象派と称されることになるエクスの巨匠は、フィンセントがアルルへ赴いた頃にはそれらの美しさをどうやってキャンバス上に写し取るか探求し続けていたに違いない。
案内所で「アルルへ行くバスはどこか」と尋ねると、係の女性に「どこですって?」と怪訝な顔で訊き返された。
「だから、アルルへ行きたいの」と何度言っても伝わらない。
仕方がないのでテーブルの上に広げてあったプロヴァンス地方の地図から「Arles」のところを指差したところ、その女性が納得したように口にした発音は、あたしには何度訊いても「アホ」にしか聞こえなかった。
アルルに着くと、あたしはゴッホの黄色と青を探し周った。
夜のカフェテラスでは美しい黄色の灯火を見ることができたが、青い夜空に満天の星を見ることはできなかった。
「黄色い家」は家そのものが存在せず、背景に残る建物はまったく黄色には見えない。跳ね橋については、もしも当時新築の白木であったなら或いは黄色く見えたのかもしれないが、水も濁っていて青にはほど遠く、想像していたものとはまるで違う色彩に出迎えられることになった。
跳ね橋は描かれた後に移築されているし周囲の景色も同じではないので当然にせよ、あたしが最も好きな絵のひとつであるローヌ川においても、時間帯や天気が違うとはいえ、やはり絵から受けたような幻想的なイメージとは少し違っていた。
ただ一つ、一面に咲き乱れる向日葵を見に出掛けるには季節が少し早過ぎたのが悔やまれる。
向日葵だけは、世界中どこでも絶対的に黄色いはずだから。
色覚とは目で捉えた光の反射の情報が脳に送られて創り出された記憶だ。
四色型色覚を持つツバメは紫外線Aを認識できるため人間とはかなり違った色合いに見えていると言われているし、人によって同じ物の色が全く違って見えても不思議じゃない。
まして感情のフィルターを通したらその時の状況によって人が感じる色彩は大きく左右されるだろう。
今日もしも向日葵畑を見に行けていたら、あたしの見たアルルの景色はもっと黄色く光り輝いて記憶に残っていたかもしれない・・・
え?・・・ちょっと待って! つまり、あたしの心の問題だったってこと? そうなんだ・・・思いが強いと、その色が増幅されて見えるんだ。
フィンセントだけが心のフィルターを持っているわけじゃない、きっと誰でも同じなんだ。 彼はそれを正直にキャンバス上に描こうとしただけ・・・彼が必死で追い求めた配色は、きっと心で見た本物の風景の記憶なんだ。
だけど・・・じゃあ、彼は何故あんなにまで苦しまなければならなかったのかな・・・
コンサート・ツアーの公演スケジュールの中にアムステルダムが入っていることを知った時、あたしは心臓がドキリとした。
あの年にアルルの向日葵畑を見損なったことを後悔したあと、あたしの日常はゆっくりゴッホと共に過ごす時間を許してくれなかったし、ヨーロッパには何度か出かけたもののアムスに行くチャンスは全くなかった。
記憶の彼方に追いやられていた黄色を、一枚の行程表が呼び覚ました。
ゴッホは狂気の画家だという見解に、あたしは納得できない。
アルルの「黄色い家」で画家たちのユートピアを夢見たゴッホ。
実際、唯一あそこへやって来たゴーギャンとの共同生活は僅か2ヶ月しか続かなかったのは確かだ。
しかし、それは彼の気がおかしかったのではなく、どんな時にも自らの創作に妥協を許さず、真撃に取り組んでいたからに他ならないと思う。
「正気」とは、あくまでもその他大勢の平均的見解を根拠として規定した妄想だ。 立場が逆転すれば明日にはあたしたちだって狂人とされるに違いない。
世の中の多くの人は「狂人」に分類されないように巧みに自分を変化させて生きていくものだが、彼はそれだけ器用でなかっただけの話。
いや、たとえ器用だったとしても彼は自分を変えなかったのではないだろうか。 言い換えれば、世に言う「狂人」とは、とことん自分に正直な人のことなのだ。 あたしは、ゴッホ美術館でそれを確信する一枚と出会った。
アムステルダムは地元の友人曰く、「珍しく」快晴だった。 滞在したホテルがゴッホ美術館からわずか徒歩10分の位置にあったことが、 一時は(演奏会本番前なのだし今回は諦めよう)と思っていたあたしの気持ちを逆転させた。
あたしにとって美術館はとても体力を要する場所だ。
いろんな思いが狭い空間に押し込められているせいか、「気」によって異常に高められた緊迫感に耐えられるのは、どんなにがんばっても2時間が限界だ。
しかも本番前。ここで体力を使い果たしては、このあとの仕事に差し障る。
そんな邪念ばかりが交錯する中、上層階であたしの心を捉えた絵は1890年に療養中のサン=レミ=ド=プロヴァンスで描かれた「花咲くアーモンドの木」だった。
それは一枚一枚の花びらが丹念に美しく描かれていて、日本画のように繊細でありながら生命感溢れる筆致はフィンセント特有のものだった。
その絵が描かれてから100年以上の歳月が流れた現在、短い生涯に彼が描いた多くの自画像と瓜二つの顔をした人物がゴッホ美術館を運営するゴッホ財団の理事長を務めている。名前も全く同じフィンセント・ファン・ゴッホ。
フィンセントを追って僅か半年後に他界したテオとその妻ヨハンナの間に生まれた子の孫にあたる。 「花咲くアーモンドの木」は彼の祖父が生まれたことを祝ってフィンセントが描いたもので、長い間ゴッホ家の子供部屋に飾られていたのだそうだ。 絵に描かれた通り、ゴッホの命はいまも脈々と受け継がれている。
(フィンセントが、画家たちの集まるユートピアを目ざしたアルルの街並み)
さて、 あたしの独り言はこれでおしまい。
最後まで読んで下さった方、ありがとうございます。
あたしも、できる限りフィンセントのように正直に生きたいと思う・・・彼のような情熱には決定的に欠けているけれど。
(注釈)
確か2015年にFacebookに掲載したものが初出です。
その後webに掲載していたものを移転してきました。
稚拙な文章ではありますが私の実体験を記したノンフィクションです。
最後のアキラさんとの夢のツーショットはご本人の許可を得ずに掲載しておりました。アキラさん、申し訳ありませんm(_ _)m
2021/10/3 宮川彬良作曲「風のオリヴァストロ」を演奏した夜に。Juvi